くそみそたのてきと~がたりー本とか映画とか

本とか映画とかについて語るブログ

夢小説的なようでそうじゃない~「マスク」~

 どうでもいいけど、私は夢小説を書くのが趣味だ。夢小説っていってもだいたい自分とは違う全然違う理想の女キャラクター(社交的、可愛い、おしゃれ)を作って好きなキャラに振られる話だから一般的な夢小説ではない。普通の夢小説は自分ではない誰か、理想のキャラクターを生み出し、好きなキャラクターと幸せな恋愛をさせる。だけど私は「こんなにかっこいいにーちゃんが私と付き合ってくれへんよな」と現実が邪魔してしまってかっこいいにーちゃんと付き合ってても振られたり、浮気されたりする話を作ってしまう。夢小説を妄想や理想を話にするのが道理だが、悲しいことに、完全に現実である自分を分離できないのだ。そんな悲しき夢女子である自分にとって「マスク」は本当に理想の話である。平凡なにーちゃん(夢女子)がなりたい自分(夢主)になれて、マスク(小説)を使って綺麗なねーちゃん(推し)と恋に落ちる。ものすごく夢小説的である!!と思ったのだが、夢小説とは違ってこの映画では現実と幻想の境目が曖昧すぎるのだ。爆弾飲み込んでイプキスが無事だったりするあたりで、匙を投げた。この映画は現実と幻想が表裏一体、というよりかは共存しているのだ。当たり前だが現実である夢女子と夢主は似てようが被せてようが全くの別物だ。推しと恋に落ちるのは自分が作り上げた別人で、現実とは絶対交わらない。けど「マスク」は現実が幻想となって、幻想が現実になる。マスク(これ自体に意思あるんじゃねえの?)の介入によって幻想が生み出されている。作り出すわけじゃなくて、生み出されているのだ。主人公が受け身的なのだ。マスクが能動的すぎるのか?イプキスはマスクによってジェシカラビットみのある神々しいキャメロン・ディアスと恋に落ちたのだ。上手いこと幻想が冴えない現実を蹴飛ばして、現実を良い方向に変える。現実と幻想が理想的に調和しているのだ。勿論幻想の枠内である映画だからできることである。

 最後に忘れちゃいけないのが、これイプキスは人助けをしようとしたのがきっかけでマスクを手に入れたのだ。都合のいい幻想を手に入れるには良い行いが必要ということか。ただ、実際私が人助けのために海に入ろうが入らまいがマスクも素敵なラブシーンも手に入らない。ただただ幻想を無理やり生み出して満足するしかないのだ。小さいとき「マスク」を観たときはただ笑っているだけだったが擦れて成長してしまって、変な感想を生み出してしまった。つくづく子どものままでいたいもんだ、、、、